ヤギーのプロフィール

このページを開いてくださり、ありがとうございます!

「心と体をつなぐトレーナー」のヤギーと申します。

 

このページでは、ヤギーこと私の自己紹介していきますね。

長旅になりますが、ちょっとでもお付き合いいただけたら嬉しいです!

ヤギーの幼少時代

1982年生まれの新潟県出身。

雪深く、自然豊かな環境で育ちました。

 

春や秋は山菜採り、夏は川に行き、冬はかまくら作りやスキーなど。

運動は苦手でしたが、自然の恵みをたっぷりと受けて過ごしました。

 

父、母とは、私が小学校に入る前に別居。

姉、妹とも離れ離れになり、父方の祖父母と3人暮らしをすることになります。

そのため、幼少からおじいちゃん、おばあちゃんっ子でした。

 

一緒に暮らしていた父方の祖父は、従業員5名ほどの小さな椅子工場を経営。

私も幼少の頃から祖父の仕事を手伝ったり、客先を一緒に回ったりしていました。

ワゴン車の荷台に、「よいしょ!よいしょ!」と紐で束ねた椅子の座面を積み込み、納品に向かう。

道中で信号に書いてある「漢字当てクイズ」をやったり、

納品の帰りに商店街で、

「ちょっぴり酸味のあるソースが染み込んだ、しなしなのタコ焼き」を買ってもらうのが楽しみでした。

 

背筋がいつもシャンと伸びていて、汗が染み込んでクタクタになった西武ライオンズの帽子がトレードマーク。

正義感が強く、曲がったことが大嫌い。

普段は優しいけれど、怒った時の恐ろしさは今でも忘れられません。

家ではおじいちゃんの意見が絶対。

見たいテレビがあっても意見を言うことは許されず、すぐにニュースや相撲に変えられてしまいました。

結果的に、

私の「自分の意見を言えず、人に遠慮する人生」がスタートすることになります。

 

当時は我慢を強いられる毎日でも、「つらい」と思うことは少なかったような気がします。

逆に「自分で決めなくていい」という甘えが常にありました。

そのせいで、後から苦労することになるわけですが…

 

祖父母はとても優しく、言うことを聞いていれば褒めてくれました。

親戚の人が来たら「こんにちは!」と挨拶をする。

「あら~、いい子ね~」と褒められると、

「そんなことないですよ~」と祖母が1オクターブ高い声で応じる。

 

私はというと、挨拶をした後はずっと笑顔で一言も話してはいけない。

座ってしっかりと話を聞くこと。

噂がすぐに広まるから、余計なことは言わないように。

 

常に釘をさされて、行動を監視されていました。

 

小学3年のある日、

「友だちと遊んでくるから」

そう言って、いつも通り出かけていきました。

 

実は、祖母に嘘をついて母に会いに行こうと思ったのです。

 

久々に会う母は、

「よく来たね~」と顔をクシャクシャにしながら喜んでくれました。

 

「たくさん食べていって!」

 

焦げているわけではないのに、真っ黒な卵焼き。

ご飯のおかずにはならないくらいの甘さ。

おいしくて何個もおかわりしました。

 

ちょっと遅くなったけど、

「いつでも来るんだよ!」と別れを惜しんで帰ると、玄関で待ち構える祖母。

 

「お母さんのところに行ってたでしょ?」

 

何も言えませんでした。

 

翌日に訪れた親戚や祖母の友人たちも、私が母のところに行っていたのを知っていました。

話を聞いてみると、

どうやら、母の家に行くまでの足取りを監視していた模様。

 

怖さを通り越して、

「もう嘘をついて母のところに行くのはやめよう」と思ったのです。

 

家では「いい子」を演じていましたが、

学校では家庭環境のこと、動作が人より遅いこと、太っていたことをネタに周りからいじめられる毎日が続いたんです。

 

家では自分の意見をグッと飲み込み、学校では生徒や先生(!)からのいじめに耐える日々。

当時の心境としては、

「いじめられていたとしても、この関係を壊したくない」

「自分が我慢すれば済む話」と考えていました。

今考えると、「よく我慢してたなぁ」と思います。

 

そして小学4年の時に、その後の人生を変えてしまう出来事が起こります。

ヤギーの少年時代①

ある日の夕方、学校から帰ってきて家で遊んでいると、電話が鳴り響きました。

「ジリリリーン、ジリリリーン」

昭和の佇まいに溶け込んだ黒電話が鐘を打ち、空気が震えだす。

「たぶん親戚だろう」と思って電話に出てみると、衝撃的な一言が耳に飛び込んできました。

 

「…お、おじいちゃんが事故にあった」

 

いつも行くガソリンスタンドのおじさんからの電話。

一瞬、何を言っているのか理解できませんでした。

おじさんも冷静さを失っていて、「はよ、早よぉ!」と言葉にならない。

隣りにいた祖母と電話を代わり、ようやく事態が飲み込めてきました。

 

どうやら、祖父が見通しのいい交差点で一時停止をせず、走ってきた車に横から追突されたとのこと。

父に急いで連絡し、搬送先の病院に向かいました。

 

幸い、一命は取りとめましたが、車外に投げ出されて頭を強く打ったという診断。

意識が戻ってから話しかけても、自分の名前、年齢すら思い出せない。

「あ~、あ~」

言葉を話そうとしているのか、苦しさで出てしまう声なのかもわからない。

そして、家族の記憶すらも失っていました。

 

無事に退院してからも記憶が戻ることはなく、あんなに優しかった祖父が祖母に暴力を振るうようになりました。

ご飯を食べたことも忘れ、何か言えば手が飛んでくる。

いたるところに排泄物を撒き散らし、夜中になるといなくなる。

居心地の良かった家にも、「もう帰りたくない…」と思うようになっていきました。

 

当然、祖父の事業もうまかなくなり、会社をたたみ、借金は膨れ上がったと聞きます。

祖父が事故に遭うまでは広かった土地も、誰かのものになっていくのが何となくわかった。

幼少の頃から大好きだったワゴン車が、役目を終えて何かを待ち続けている。

ワゴン車の錆びついたリアバンパーが、雨でぬかるんだ土の中に首をうずめるように横たわっていた。

そんな姿を見て「もう、生活苦しいんだろうな…」と思うようになりました。

 

 

中学3年の夏休み。

祖父が息を引き取った時、涙は出ませんでした。

良い部分も悪い部分もたくさん見てきたせいで、

「育ててくれてありがとう」という気持ちなのか、

「助けてあげられなかった」という申し訳なさなのか、何とも言えない不思議な気持ちになったのを覚えています。

 

ただ、ひとつ言えることは

 

「昔のおじいちゃんのように、仕事も家族も大事にできる人になりたい」

 

この想いは、今もずっと胸に刻みこまれています。

ヤギーの少年時代②

祖父が息を引き取ってからは、父と祖母の3人で暮らすことになります。

 

父は週末になると家に顔を出したり、従兄や妹を交えて遊んだりしていたので、最初の頃は何も感じませんでした。

しかし、しばらく生活を共にしていると、一緒にいても一言も話さなかったり、居心地の悪さを感じたりすることが増えてきたんです。

その違和感は、父と一緒に暮らす間、付きまとっていました。

そして、学校生活でも変化が現れてきました。

 

いじめも落ち着き、中学校時代は目をつけられることなく過ごしていた気がします。

ただ、「自分の意見を言わずに生きてきた」というハンデが、コミュニケーションの苦手意識を決定的にさせる出来事につながっていきます。

 

ある日の昼休み。

当時好きだった女の子と、教室で2人になる機会があったんです。

 

その時いきなり、

「このエプロンどう?可愛いでしょ?」

家庭科の時間に作ったエプロンを、私に見せながら聞いてきたんです。

 

何か気の利いた一言でも返せれば良かった。

でも、何も言わずに走り去ってしまいました。

その後、中学を卒業するまで後悔し続けました。

 

「何であの時、逃げてしまったんだろう?」

高校生になっても脳裏から離れませんでした。

 

この経験から、

「人と話すのが苦手」

「自分の意見を言うのは恥ずかしい」

という思い込みが固まっていった気がします。

ヤギーの社会人生活①

高校を卒業してからは、地元にある半導体メーカーに就職しました。

 

主な仕事は、工場内にある装置のメンテナンス。

作業する方たちを見て「ここは危険だ」という場所を改善したり、

装置が壊れないようにメンテナンスの計画を立てたりしていました。

 

ときには、

「雨漏りしたから直してよ!」と言われて天井裏に上ったり、

「トイレで水漏れしてるから直して!」と配管を修理したり。

今考えると、なんでも屋でしたね(笑)

 

入社して3年くらいは、

「仕事ができない、遅い、理解できない」の三拍子で、しょっちゅう怒られていました。

プロジェクトに参加したときも、

資料を作ってもダメ出しされる、何を言いたいのかわからない、そもそもテーマとずれているなど、仕事の出来なさっぷりに自信をなくしていきました。

 

当時は日が変わるまで残っている人も多く、もちろんサービス残業。

帰るのは夜中の2時、朝は6時に起きて会社に行く。

仕事をすることから、「長く会社にいること」が目的になっていきました。

 

ある日、夜中に帰宅してお風呂に入っていると、こんな気持ちが浮かんだんです。

 

「何のために生きているんだろう?」

 

気づいた時には、「ゼィゼィ」と肩で息をしながら脱衣所の上で仰向けになっていました。

なかなかあがってこないのを心配した祖母が、溺れていたところを見つけたとのこと。

何も言わず、心配そうに見つめる祖母。

 

「あの時、死んでしまえたら楽だったのに」

 

このように考える毎日が、1年ほど続きました。

ヤギーの社会人生活②

自信をなくし、過労もたたったせいか、ついに感情が爆発してしまいます。

直属の上司と口論になり、入社4年目で左遷されることになりました。

しかし、この異動が私にとっての転機になっていきます。

 

入社当時から気にかけてくれていた先輩のもとで働くこととなり、仕事に対する想いや仕事の進め方など、ベースとなる部分をたくさん学びました。

その先輩は、曲がったことが大嫌いで正義感が強い

納得できないことがあると、よく口論をしていたのを思い出します。

 

そんなこともあってか、私のことも理解してくれて、

できたことには、

「お前だからできたんだな!」とか「いい仕事したな!」と褒めてくれました。

逆に手を抜いてしまうと、恐ろしいくらい怒られました。

 

そんな先輩のおかげで、

「社内改善のコンテストで2年連続表彰」されるなど、

仕事に関して自信をつけていきました。

 

ただ、どうしても気になってしまうことがひとつだけ、ありました。

それは、

「人とうまく話せない」ということ。

 

その先輩とは自然に話せるのに、他の人と話そうとするとうまくいかない。

昼休みに同僚、先輩、後輩たちとご飯を食べていても、会話が続かず沈黙してしまう。

飲み会に行っても、「お前はつまんないやつだな」と言われ、後輩にもバカにされる始末。

悔しくてたまりませんでした。

 

そんなある日、当時付き合っていた彼女から電話があり、別れを告げられました。

友人から紹介してもらって付き合い始めたため、会話も弾んで毎日が楽しかったのを覚えています。

「こんなに楽しかったのに、急になぜ?」と思いました。

理由を聞いても、「好きな人ができたから」と一点張り。

 

どうにも納得できなくて何度も問いただすと、しびれを切らして彼女はこう言ったんです。

 

「…ずっと黙ってたけど、あんたって何考えてるかわかんないよ!」

 

「あ…う…」

 

情けない声しか出ませんでした。

 

確かに心当たりはあって、自分のことを隠してよく見せようというところはあったと思います。

1ヶ月くらい仕事にも身が入らず、ショックで立ち直れませんでした。

 

先輩は「次があるって!」と励ましてくれましたが、友人にも顔向けできず気まずい…。

 

その後、どこで見つけたかは忘れましたが、サミュエル・スマイルズの『自助論』という本に出会いました。

それまで本は漫画しか読まなかったのに、食い入るように読みました。

その時に買ったのは、通常、2倍速、4倍速で聴けるCDがついていて、何度も聴いていたのを思い出します。

「天は自ら助くる者を助く」

引用元:スマイルズの世界的名著 自助論 著者 サミュエル スマイルズ

この言葉を聞いているうちに、

「絶対に今の自分を変えてやる!」という想いがムクムクと湧き上がってきたのです。

ヤギーの社会人生活③

コミュニケーション能力を磨こうと思い、まずは英会話教室に通い始めました。

もともと英語の授業だけは好きだったので、すんなりと入っていけたのを覚えています。

 

個人でやっている英会話教室だったため、先生とも仲良くなり、友人もできてスノボーに行ったり鍋をしたり、彼女もできて楽しかった。

「でも何か違う…」

そう感じて、転職しようと決意します。

 

「自分を変えるには営業しかない」

 

そう決めて、訪問営業に絞って転職活動を始めました。

親や会社の人たちからは「絶対やめておいたほうがいい」と反対されましたが、

「やると決めたからには絶対にやる」と決意し、一人暮らしのアパートを一人で契約してきました。

今考えると「自分にしては思い切った行動だったな…」と思います。

 

結論から言ってしまうと、訪問営業の仕事は3ヶ月で辞めてしまいました。

「これだけ意気込んでいたのに、3ヶ月って早すぎでしょ」と思った人も多いはず。

しかし、中学3年間の学校生活より、3ヶ月の訪問営業での経験の方が自分にとって貴重な財産になっています。

あなたは、初対面の人から睨まれたり、塩を撒かれたりした経験はありますか?

私は訪問営業で何度も経験しましたが、

これ、相当キツかったです(汗)

 

個人宅のインターホンを押してから、会社名と何をしている会社かを説明していると、

「結構です!」と怒った口調でインターホンを切られる。

玄関のドアを開けてくれた人は、顔を見た瞬間「見てはいけないものを見てしまった」と言わんばかりにドアを勢いよく締め、鍵とチェーンロックをかける。

何もしていないのに「二度と来んな!」と怒鳴りつけられたこともあり、

「とんでもない仕事を選んでしまったな…」と思ったのを覚えています。

 

普通だったら1日で辞めたくなるはずなのに、なぜ3ヶ月も続いたのか?

振り返ってみると、人に恵まれたからだと思っています。

 

当時勤めていた訪問営業の会社は、営業部が2つありました。

一つは、「買ってくれるまで帰ってくるな!」という押し売りの色が強い部署。

もう一つは、「相手が嫌がっているなら無理に売らなくてもいい。その代わり役に立つことをしろ」という部署でした。

私が配属されたのは後者の方。

よく上司から「売れないセールスはダメだけど、時と場合によっては売らないセールスをしろ」と言われました。

当時はチンプンカンプンでしたが、

今なら「売らないセールス」の意味が、よーく理解できます。

 

私が所属していた営業部は、みんなが本当に優しくて、

新人の私のために営業が終わってからロープレ(実際のお客さんを想定してセールストークを練習すること)に付き合ってくれました。

商品説明もなかなか覚えられず、トークも噛み噛みでポンコツな私のことを、上司はよく褒めてくれたんです。

 

「その素人っぽさがいいから下手クソのままでいいぞ」

「商品説明なんて覚えなくていいから、必死にやればお客さんは安心してくれる」

 

入社してすぐの頃は、噛まずに上手に話そうと練習していましたが、

「完璧じゃなくてもいいんだ」と励まされ、大きな自信につながったのです。

 

その後は「わざとつっかえるように話す」など、

「どうしたら営業っぽく見えないか」を試行錯誤して、ドアを閉められるまでの時間を少しずつ長くしていきました。

すると、不思議なことに話を聞いてくれる人が増えてきたのです。

 

今日は無理でも、「別の日にまた来てちょうだい」と言われることも多くなりました。

アポイントが取れるようになったことが本当に嬉しくて、お客さんのために精一杯役に立とうと思ってがむしゃらにやっていたのを覚えています。

このとき、商品が売れるか売れないかなんてことは、全く考えていませんでした。

営業マンとしては失格ですが、今まで嫌われていた立場から少しでも心を開いてもらえたことが嬉しくて嬉しくてたまらなかったんです。

こうして商品を売ることを忘れて部屋の大掃除をしたり、不用品の片付けをしたりして、お客さんから感謝されることが楽しくなっていきました。

その中でも、特に印象に残っているお客様がいます。

 

いつも通りアポイントを取ろうと訪問して玄関に入れてもらえたのですが、話は聞いてくれるものの警戒心むき出しで、今にも追い出されそうな雰囲気が続きました。

しかし、家の中の掃除や片づけが進まなくて困っているというのを聞いたため、

「今日1日かけてやりますよ!」と引き受けたのです。

「じゃあ勝手にやってよ!」ということなので、キッチンのフードやコンロ周り、お風呂からトイレ、廊下のワックスがけにいたるまで、汗だくになりながらできる限りのことをしました。

すると、

「あんた、そんなに痩せこけてちゃんとご飯食べてるの?今作ってあげるから」と言われ、目の前に「皿うどん」が運ばれてきたのです。

 

実は、営業車もない、自分の車を使ってもガソリン代は経費で落ちない、フルコミッションなのでノルマを達成するまで給料も出ないという超ブラック企業。

そんな状況が続いたため、1日1食が当たり前でした。

仕事が終わってから閉店前のスーパーに行き、袋詰めされた千切りのキャベツと、半額の値引きシールがついたコロッケが当時のごちそう。

そんな中、目の前に差し出された皿うどんを見て、涙が止まりませんでした。

 

そのお客様はようやく笑顔を見せながら、

「実は昔セールスで買いたくもないものを買わされたの。だからセールスは嫌なのよ」と話してくれました。

「でも、あなたがこんなに一生懸命になって家中をピカピカにしてくれて嬉しかったわ。あなたのところの商品はいくらなの?」と聞かれたので値段を伝えたところ、一番安い商品を買いたいと言ってくれたのです。

ノルマもあったので買ってほしい気持ちはあったのですが、ここは自分の本心をしっかりと伝えました。

 

「本当に必要なら買った方がいいと思いますけど、よく考えて本当に必要だと思ったら声をかけてください」

そう言って、お客様のもとを後にしました。

 

この後、会社を辞めることになったのですが、

今回の経験を通じて、いちばん大切なことを学んだのです。

 

「自分の意志で決断することの大切さ」

 

今でも皿うどんを目にすると、当時の出来事を思い出して涙が出そうになります。

ダーツとの出会い①

訪問営業を辞めてからはアルバイトを転々とし、友人の誘いで自衛隊に入ることになりました。

厳しい規則、団体生活の難しさはありましたが、様々な価値観を持つ人達との出会いを通じて、コミュニケーションをとることの楽しさに気づいていきます。

自衛隊に入って半年ほど経ってから、私の運命を大きく変える出来事がありました。

 

週末に自衛隊の同期たちとボーリングに行ったとき、たまたま待ち時間でダーツをしたんです。

その時は、特に楽しいとは思いませんでした。

しかし、仲の良い同期がダーツにハマっていき、

「近くでダーツ場を見つけたから行ってみない?」と誘われて、何度か行くようになりました。

 

同期たちはいつの間にかマイダーツを手にしていて、野球部やバスケ部出身ということもあってうまいんですね。

何度やっても勝てなくて、無性に悔しくなったのを覚えています。

 

気づいたら一人でマイダーツを買いに行っていました(笑)。

そこから「絶対に勝ちたい!」と思い、一人でダーツバーに行くようになったのです。

最初は一人で行くのは緊張しましたが、店員さんが気を利かせて話しかけてくれたり、知らないお客さん同士のマッチングをしてくれたりしました。

おかげでその後もダーツバーに通うようになり、いろんな世代の友人ができて一気にダーツの魅力にハマっていきます。

 

1ヶ月くらい経った頃には同期たちに勝てるようになり、

3ヶ月くらいするとダーツバーで知り合った人に「試合に出てみない?」と誘われて、準優勝してしまいました。

決勝戦は緊張して手が震えていましたが、歓声や応援を受けながら投げることの気持ち良さに酔いしれて、完全にダーツにのめり込んでいったのです。

 

その後は、寝ることも食べることも惜しんで毎日ダーツバーに通い、部屋にもダーツボードを設置してずっとダーツのことを考えていたのを覚えています。

どうやったら勝てるのかを考えるようになり、ランニングや水泳、筋トレを始めたり、メンタルトレーニングや食生活・体のメンテナンスについて勉強するようになりました。

それからは、ダーツバーで知り合った友人たちと大きな大会にも出るようになり、

上のクラスで活躍している人たちのプレイも間近で見るようになりました。

 

「もしも、プロになれたら毎日楽しいだろうなぁ」

 

仕事をしている時も、そんなことばかり考えるようになりました。

そこから徐々に歯車がずれていきます。

ダーツとの出会い②

ある時期から「プロになりたい」という気持ちが抑えきれなくなり、

「プロになるにはどうすればいいのか?」を考えるようになりました。

 

給料のほとんどをダーツの練習に費やし、大会にも積極的に参加。

メンタルトレーニングを習ったり、整体や酸素カプセルに毎週通ったりしました。

 

「もうダーツのこと以外考えられない」

「自衛隊を辞めてダーツで食べていこう!」と考えました。

 

プロテストにも何とか合格。

「ようやくダーツが思い切りできる…」とはなりませんでした。

 

逆に、プレッシャーというか、何とも言えない気持ち悪さが押し寄せてきたのです。

 

今まで一緒に投げていた仲間からも、

「プロなんだから!」と言われ、

「プロだから負けるわけにはいかない」という重圧が常にかかっていました。

その頃から自分の思い通りにダーツが投げられなくなり、人間関係がギクシャクしてきたように感じます。

 

実際にはプロになると、試合に出るために膨大なお金がかかります。

有名になってスポンサーがついていれば負担は少なくなりますが、無名だとダーツに関わるほとんどのお金を捻出しなければいけません。

 

試合の参加費、遠征費、宿泊費など、遠方の場合だと1回の大会で軽く10万円近く飛んでいきます。

さらには、普段の練習にかかるお金、用具代、プロ資格の維持費など。

働きながら参加したとしても、結構な負担だと思います。

 

自衛隊を辞めた後はアルバイトを始めたものの、プロになってから1年経たずに資金難に陥り、試合に出られなくなりました。

 

そして、試合に出るにつれて左の肩甲骨が痛み出し、肩・肘・指のいうことがきかなくなっていきました。

特に左手(投げる方の手)の薬指と小指が何もしていなくてもグッと握り込むようになってしまい、顔を洗うときですら支障をきたすようになってしまいました。

 

今まで楽しくて仕方なかったことが苦痛へと変わり、朝起きるのが辛くなり、仕事に行くのも困難に。

そこからは大会に出るのも心身面・経済面から困難になり、逃げるように身を引くという結果になってしまいました。

 

今考えてみると「プロになること」には強いイメージを持っていたのに対して、

「プロになった後、どうしたいのか」が抜けていた。

 

挫折と共に訪れたのは、約500万円の借金と「うつで苦しむ毎日」でした。

カウンセリングとの出会い

ダーツを通じて、多くの人を傷つけてしまった。

そして、結果的に自分自身も深い傷を負ってしまった。

自分を支えてくれた人には、申し訳ない気持ちでいっぱい。

「でも、どうしようもできない」

 

こんな気持ちから

「いっそのこと死んでしまいたい」と毎日考えるようになり、どうにもならなくなったタイミングで、

「もう一度、カウンセリングを受けてみよう」と思ったんです。

 

ここで「もう一度」と書いたのには理由があって、

実は自衛隊に入って1年くらい経ったときに、

「厳しい規則、団体生活のプライバシーのなさ、管理された状況」が苦しくて、カウンセリングルームに通っていました。

 

「幼少の頃の体験、家族のこと、これまでの経験など」を、質問に対して思い出すように話していく。

 

カウンセリングは癒やしのイメージがあるかもしれませんが、ものすごく苦しかったです。

 

カウンセラーから質問されても答えることができず、40分近く声を出せない時もありました。

何か言おうにも言葉が思い浮かばず、焦りで体中から吹き出てくる冷たい汗を感じながら、

「早くこの場から逃げ出したい」と、ずっと考えていたのを覚えています。

 

その後も、自分の中にある「見たくないもの」と向き合い続けたおかげで、少しずつカウンセラーの先生と会話ができるようになっていきました。

 

カウンセラーの先生からは「日記をつけるといいよ」と教えてもらい、その習慣は今でも続いています。

 

仕事の時もダーツで挫折した時も、何度も言われて記憶に残っていること。

 

「人は人、あなたはあなた」

 

カウンセリングを受けていた時の記憶が、

現在、私のコミュニケーションのベースになっていると実感しています。

なぜ「心と体をつなぐ」なのか?

インターネットが発達し、世界中の人とコミュニケーションが取れるようになった現代社会。

遠く離れていてもパソコンやスマホがあればつながれる、便利な時代になりました。

しかし、「目の前の人とうまくコミュニケーションが取れない…」と悩む人が増えてきたように感じています。

 

冒頭からお話ししているように、私も幼少の頃から人見知りで、組織の中でコミュニケーションを取ることが苦手でした。

内気な性格だったため、人前で話すとなると顔が真っ赤になり、汗が止まらなくなる。

誰かと話すたびに「この場から逃げたい…」と顔を覆いたくなる毎日でした。

 

私の場合は、訪問営業に転職してコミュニケーション能力を磨き、

「人と話すのは楽しいんだ!」と思えるようになった。

そして、ダーツの夢を追いかけることもできた。

 

しかし、結局は挫折してしまった。

 

どんなにコミュニケーション能力や運動能力が上がっても、うまくいかないことのほうが多い。

「なんでだろう?」とずっと考えていた時、たどり着いた答え。

 

それは「心と体をつなぐこと」でした。

 

私自身も経験してわかったのは、

ノウハウを手に入れて実践したり、ある程度の練習を繰り返せば、

「口下手や人見知り、話すことの苦手意識」は克服できます。

 

また、コーチについてもらって練習を繰り返せば、

「運動オンチでも試合に勝てる」ようになる。

 

しかし、「幸せかどうか?」は別の場所にあります

 

私は現在「腰・膝・肩の痛み、不定愁訴改善を専門とするパーソナルトレーナー」をしていますが、同じ施術やトレーニングをしても良くなる人と変わらない人がいます。

 

または、せっかく良くなりかけているのに、

「忙しくなったから来れなくなった」と去ってしまう方もいます。

 

最初はわかりませんでしたが、

1年で100人以上のクライアントさんと向き合ってみて気づいたこと。

 

それは、

「クライアントさん自身が納得してできているか?」です。

 

ここでは詳しいことは割愛しますが、

どんなに便利な道具を手に入れて、魔法のようなメゾットを知っていても、

「心の状態が乱れている限り、その場しのぎにしかならない」ということ。

 

体の状態を整える、どんなコミュニケーションを取るかというのは、もちろん大事。

ただ、心が安定しているからこそ、ノウハウやスキルが生きてくる

 

そう信じて、情報発信&活動を行っております。

ヤギーのビジョン

私ヤギーには、ビジョンがあります。

「幼少の頃から自分の意見を言えずに悩んできた人に対して、コミュニケーション・体というツールを通じて心を良い状態に保つ方法を伝えていくこと」

 

そして、

「家庭も仕事も楽しみながら、充実した毎日を過ごせる人を増やしていくこと」

 

私が幼少の頃から、祖父の働き方や家族との関わり方を見てきて、ずっと胸に刻んできたこと。

 

「仕事で成功できても、家族をないがしろにしたら虚しいだけ」

「家族のために自分を犠牲にしていたら、子供が自立した後にきっと後悔する」

 

「仕事も趣味も夢も…やりたかったらやってもいいんだ!」

 

一人だけでは難しくても、家族や友人、そして今ならソーシャルメディアもある。

 

関わる人が増えるほど、振り回されることも多くなるけど、

あなたが決めたこと、あなたが信じる進み方を大切にしたい。

 

そして、迷った時のガイド役として、

いつでも応援できる人でありたい。

 

あなたが行動することで、みんなが幸せになる世の中へ!

 

これがヤギーの願いです。

名前の由来について

順番的には最初に書こうと思ったのですが、

「ここまで読んでいただいた方がわかりやすいのかな?」と思ったので、このタイミングでお話ししますね。

 

プロフィール画像を見ていただければわかるのですが、

見たまんまヤギだからヤギーです。(笑)

 

なぜヤギーなのかというと、

「食べる時の口の動かし方がヤギみたい(モシャモシャっていう感じ)」と言われたことがあったから…。

というのもそうなんですが、もっと別の理由です。

 

ヤギは人懐っこく、しぐさや表情、鳴き声を巧みに使って感情表現をするんだそうです。

飼育者と信頼関係ができてくるほど、表現力が高まるらしいんですね。

 

ヤギは言葉を喋れませんが、私も幼少の頃から言葉をうまく使うことができませんでした。

「何を話せばいいんだろう?」「どうやって話しかければいいんだろう?」ということばかり考えていて、言葉以外の部分で伝えることを疎かにしていたんです。

 

その後は様々な経験を通じて、

内気なままでも「この人と一緒なら安心だ」と思ってもらえれば、

「最小限の言葉でも伝わる」ということを学んできました。

 

言い換えると「相手自身に気づいてもらう」とも言えます。

 

ヤギーという名前は「何のひねりもない」とツッコミが入りそうですが、

変に飾らずに「一緒にいると落ち着くんだよな~」と思ってもらえるような人(ヤギ!)でありたいと思っています。

 

長旅になりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!

インターネットがなければ、こうしてつながることがなかった出会いだと思います。

なので、良かったら末永くお付き合いいただけたら嬉しいです(^o^)

 

当ブログを読んだ感想、お悩み相談などがあれば、

私ヤギーの問い合わせフォームTwitterのDMLINE@から、

遠慮なくご相談くださいね(^o^)